みんなが嫌うものが好きでも それでもいいのよ
みんなが好きなものが好きでも それでもいいのよ
共感はいらない
一つだけ大好きなものがあれば それだけで

星野源「日常」

自分が良いと好きだと楽しかったと思ったものが、逆もまた、世間と相容れない時の心許なさは何だろうとしばしば考えます。ただの承認欲求ってやつですかね。でも実は私が思う「世間」だって、「自分で見える範囲の自分が意識して目にしているもの」でしかなくて、本当のいわゆる「世間」になんて実は目を向けていないのだけど。だからこの場合の心細さは教室でストーブを囲んで話しながら表面上は取り繕いながらも「え、え、私みんなと違うの?」と目一杯動揺する、本当にあったんだかなかったんだか最早よくわからない情景と似ている気がする。とは言いつつ私も10代の頃は「人と違うアタシ☆」に憧れたクチだった気がするから*1そんなものは大人になって勝手に作り上げたものなのかもしれない。大人になるとかつてあった青春時代に該当する日々を勝手にセンチメンタルに必要以上にノスタルジックにしがちで良くない。
それはともかく、肯定するから絶賛するから良いと言うわけでも、否定するから苦言を呈すから偉いと言うわけでもなく、ただただ、そんなものたちは個人の思いでしかなく、どちらでもいいのだなあと、知っていたのにまたそこに辿り着くまでに多少の時間を費やしてしまった。私の中にも、自分の意見が正しいと「思われたい」要素がふんだんにあるのだなあ。思いたい、のではなく、思われたい、と。認めてしまうと気恥ずかしいことこの上ないけど、やはりあるのだなあ。
言葉を紡ぐ対象、私の場合はきっと好きなアイドルなのだけど、その対象を上げても下げても、褒めてもけなしても、讃えても貶めても、自分自身の価値は1ミリも上がらない。対象を称賛することで、「こんなすばらしいものを好きな私」を確認したいそして認められたい気持ちはわかるけど、でも結局自分自身は特にすばらしくはないことも知っている。どんなにすばらしいと思ってもすばらしいのは対象であって私にあるのは「すばらしいと思った個人的な思い」でしかない、それでいい。全ては自分一人分のものでしかないし、そうでなければならない。思いも、そしてそれを変換した言葉も。自分が良いと思ったから世間*2からも認められると思うことも、自分にとってつまらないから世間にも響くはずがない何も訴えないと思うことも、ひどくお門違いだしちゃんちゃらおかしいなと思う。「私が」良いと思った、好きだと思った、楽しかった、可愛いと思った、「私が」あまり良くないと思った、嫌だなと思った、つまらなかった。ただそれだけも担えず、声を大きくし、言葉を尖らせ、もしくは過剰にデコレーションし、最初から大意として振り撒くことはしたくない。背負えない言葉なら発しなければいい。
決めつけず押しつけず、ただ個でありたいなと思う。自戒も込めて、それはそれはふんだんに込めて。…うわあああああああ!!(己を省みて悶絶しました)

何かと言うと、昨日のえむすてのエイトもまるちゃんも私は大好きです、楽しかった!ってことです。
同じくらいの声量で話すのなら、すごいでしょすばらしいでしょ!って言うより、ただただ大好き!うれしい!って言っていたいなあ。

*1:そしてそうはなれないことも早々に気づいてもいた。

*2:この場合の範囲は広くても狭くてもどちらでもいいかな。